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レ・ミゼラブルの歴史
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歴史と物語の関係
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フランスの歴史とヴィクトルユーゴー年譜│ 原 作
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1767 サンジュスト生まれ、農村に育つ │
1769 ナポレオン=ボナパルト、 │1769 ジャン・バルジャン、ブリーに生まれる
コルシカ島に生まれる │
1770 ラ・マルク生まれる │1773 テナルディエ生まれる
│
1789 フランス革命 〜1799 │1780 ジャベール刑務所の中で生まれる
7/14 バスティーユ牢獄襲撃 │
8/26 ラファイエット人権宣言 │
1792.9/21 第一共和制 │
サンジュスト、国民公会に選出され│
ジャコバン派の三巨頭となる │
1793 ルイ16世を処刑 │
1794.7 テルミドールのクーデターでサン│1794 ジャン・バルジャン(25)姉一家と暮らす
ジュスト(27)断頭台に送られる │
1795 フランス総裁政府成立。ナポレオン│1795冬 (26)パンを盗み、捕まる
自由・平等・友愛を掲げて戦う │1796.4/22 ツーロンに送られる
1799.11/9 ナポレオン皇帝即位 │1796 ファンティーヌ、モントルイユ・シュー
│ ル・メールに生まれる
1801 パリの人口約55万人 │1800 (31)脱走〈+3年〉
1802 ヴィクトル・ユーゴー、ブザンソン│1802 (33)脱走〈+5年〉
に生まれる │1803 ジャベール(23)ツーロンの副看守
父レオポル(ナポレオン軍の将軍)│
母(王党派の家の娘) │1806 (37)脱走〈+3年〉
幼時、イタリア、スペインに滞在 │ ミリエル(75)ディーニュの司教になる
1804.3〜1814 第一帝政 │1807 ファンティーヌ(10)モントルイユを出る
(ナポレオンの独裁政治) │1809 (40)脱走〈+3年〉
1805〜1812 ブリュヌゾーがパリ下水調査│1810 マリウス生まれる。
1812 ナポレオン皇帝ロシア遠征失敗 │ ファンティーヌ(15)パリで女工になる
1814 ナポレオンはエルバ島へ流され、 │
ルイ18世の王政復古 │1815.6/18 ワーテルローの戦いの後、テナル
(12)パリで教育を受ける。文芸に熱中 │ ディエ(43)はポンメルシー大佐を助ける
1815.2 ウィーン会議で、ルイ18世退位│ マリウス(5)父と別れて、マレ地区の
3 ナポレオン、パリに入り百日天下│ フィユ・カルベールで祖父ジルノルマン
6/18 ワーテルローの戦い │ 氏(74)と暮らす。
ヨーロッパ連合軍にナポレオン敗北│
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し、セントヘレナ島へ流される │
ルイ18世 第二次王政復古 │1815
1815(13)第二次王政復古をユーゴーは休息│ 10月 ジャン・バルジャン(46)釈放
の時であると言った。 │ 10月初旬 ディーニュに来る
母親の影響もあって、キリスト教 │ 司教館で銀食器を盗む。
と王政を賛美する。 │ 司教は更に銀の燭台をも渡す
│ プチ・ジェルヴェの銀貨を取りあげる
1816(14)「僕はシャトーブリアンになりた│ 12月 モントルイユ・シュール・メール
い、さもなくば無だ」日記に記す │ の役場が火事になる。
│1816春 ファンティーヌ(20)パリで子供
│ を生む〈コゼット〉
1817(15)次兄ウジェーヌと共にコルディエ│1816 エポニーヌ、モンフェルメイユで生れる
寄宿学校(パリ)に通う。 │1817 マドレーヌ(48)黒玉の工場建設
│ 夏 ファンティーヌ(21)トロミエス(30)
1818〜 フランス産業革命 │ に捨てられる。
産業革命は都市を活性化させたが、パリ│1818 ファンティーヌ(22)パリを出て故郷へ戻
の急激な都市化は、様々な問題をひきお│ る途中、モンフェルメイユでテナルディ
こす(スラム化、貧困等)又、産業革命│ エ(46)と婦人(約30)に、コゼット(2)を
の進行と共に、資本家の勢力が増大し │ 預ける。
反政府運動が起きる。 │ エポニーヌ(2才半)アゼルマ(1才半)。
1819(17)アカデミー懸賞論文イルタメーヌ│ ファンティーヌ、モントルイユのマドレ
が崇拝するシャトー・ブリアンに認め│ ーヌ氏の工場で働く。
られ、軍人志望をやめて文学に熱中 │1819 マドレーヌ氏(50)国王より市長を任命さ
1819.4/26(17)アデール・フーシェとの恋 │ れるが断る。
(マリウスとコゼットのモデルとなる)│ 倒れた馬車よりフォーシュルヴァンを怪
兄もアデルに恋、母ソフィーの反対 │ 力で助ける。
1819〜1821 王党派の雑誌コンセルヴァト│ 冬 ファンティーヌ(23)解雇。
ゥール・リテレールを刊行 │
1820(18)死刑囚がギロチンに架けられるの│1820 マドレーヌ氏(51)ラフィット銀行に63万
を見た時に、〈レ・ミゼラブル〉の│ フランの預金。市長になる。
着想を得る「貧困から盗みを働いた│ 冬 ファンティーヌ(24)髪を売り、歯を売
民衆が過酷な法律により、又偏見に│ り、ついに娼婦となる。
よって更生への道を閉ざされ死刑と│ (舞台では、ペンダントと髪を売る)
なる。民衆の悲惨な生活の │
矛盾を描いた小説を書く他はない」│1821 ミリエル司教(82)が亡くなり、マドレー
1821 ナポレオン=ボナパルト、 │ ヌ市長は喪に服す。
セントヘレナ島で亡くなる │ ジャベール(41)モントルイユ・シュール
(19)母ソフィーの死 │ ・メールの警部になる
1822(20)処女詩集〈オードと雑詠集〉 │1822 ガブローシュ生まれる
パリ、サンシュルピスでアデルと結婚│1823.1月 バマタボワ氏とのいざこざで、ファ
兄ウジェーヌ発狂し精神病院へ │ ファンティーヌ(27)逮捕
1823(21)小説〈アイスランドのハン〉 │ マドレーヌ市長(54)に助けられる。
│1823.3/26 シャンマチュー事件で、マドレー
│ ヌ氏、ジャン・バルジャンを名乗り出る
│ ジャン・バルジャンにコゼットを託し、
│ 息をひきとるファンティーヌ(27)
│ ジャン・バルジャン(54)モントルイユ・
│ シュール・メールを去る。
│ 7月 プチ・ジェルヴェの件で逮捕され、
│ ツーロンに送られる。
│ 11/17 軍艦オリオン号から姿を消す
│ パリ〜モンフェルメイユに向かう
│1823.12/24 テナルディエ(50)の宿からコゼッ
│ ト(7)を引き取り、パリに戻りゴルボー
│ 屋敷に住む。
1824 シャルル10世即位 │1824 ジャベール(44)パリに移る。
│ 3月 警察に追われ、バルジャン(55)とコ
│ ゼット(8)プチ・ピクピュス修道院に入
│ り、ユルティムとして6年間隠遁生活
1826(23)小説〈ビッグ・ジャルガル〉 │1826 テナルディエ(53)の宿が破産し、パリへ
〈オードとバラード集〉 │ 出て、ジョンドレットと名のり、ゴルボ
1827(24)戯曲〈クロンウェル〉 │ ー屋敷に住む。
序文がロマン主義宣言として有名に │1827 マリウス(17)法律学校に学ぶ。
パリ左岸ノートルダム・デ・シャ │ 父ポンメルシーが亡くなった後、サン・
ン通りに転居 │ シュルピス教会で父の話を聞き、ナポレ
1829(26)〈東方詩集〉でロマン派詩人とし│ オンに傾倒する。
て名声を確立。結社セナークル設立 │
〈死刑囚最後の日〉死刑廃止を主張 │ 祖父(86)の許を出、ポルト・サンジャッ
自由主義、人道主義の思想の芽生え │ クホテル〜ゴルボー屋敷に住む。
1830(27)2月 古典派の演劇製作法を攻撃し│ ユルティム・フォーシュルヴァン(60)
ロマン主義を統率した戯曲〈エルナニ│ スト街に暮らす。
〉を書き、その初演の為にエルナニ合│
戦が起こる。長男レオポルトの死。 │1830〜35 パトロン・ミネット
1830〜1848 七月革命により、 │ パリには浮浪少年が溢れる
ルイ・フィリップの王政(七月王政)│
この政府は、正統王朝派と共和派(ジ│1830 マリウス(20)弁護士の資格取得
ャコバン派)の両派からの挟撃にあう│ 半年程前にリュクサンブール公園で見か
(27)七月革命の影響を受け、自由主義│ けた娘に恋をする
主義・人道主義の思想に傾く │
革命の余波は1832、6月暴動まで続く│1831 国勢調査か行われ、ユルティム・フォー
1831(28)〈ノートル・ダム・ド・パリ〉 │ シュルヴァン国民軍に入る。
聖職者に対する懐疑 │ コゼットとプリュメ街で暮らす。
詩集〈秋の木の葉〉 │ ジャベール(51)パリで警部となる
│
1832(29)〈ある悲劇についての喜劇〉 │1832.2/3 ゴルボー屋敷の捕り物で、ジョンド
30年代は詩集ロマン劇を相ついで発表│ レット(59)フォリス刑務所に入る
1832春 パリ、フォーブル・サン・タント│ 3月 ガブローシュ(12)の助けで脱獄
ワーヌ地区では、不景気とコレラの│ 4月 エポニーヌ(16)プリュメ街の家に
流行で、民衆の不満が高まり、秘密│ マリウス(21)を連れて行く。
結社があちこちに発生した。 │ コゼットとの再会。
学生の拠点であるサン・マソー地区│ 5月 マリウスとコゼットの愛の誓い
にも広がる │1832.6/3 不穏な動きに、ジャン・バルジャン
│ (63)ロ・マルメ街に移り、イギリスへ行
│ く準備をさせる。
│ マリウスは、祖父(91)にコゼットとの
│ 結婚を乞うが反対される。
│ エポニーヌは、コゼットから手紙をあず
│ かる。
6/4ラ・マルク将軍の死(過労) │ 6/4 ラ・マルク将軍(62)の死。
6/5暴動 │ マリウスはプリュメ街へ行くが、コゼッ
│ トはいない。落ち込むマリウス。
│ 6/5 暴動
│ ジャベール(52)隊列に加わるが、ガブロ
│ シュにより素性が割れ、縛り上げられる
│ マリウスもバリケードに入り、コゼット
│ への手紙をガブローシュに託す。
1833.2/16(31)妻アデールの裏切り。女優 │ ジャン・バルジャンはマリウスの手紙を
ジュリエット=ドゥルーエと結ばれる│ 読み、バリケードに行く。
ジュリエットの修道院時代の話から │ そこでジャベールに遭い、アンジョルラ
、 プチ・ピクチェス修道院を描くモデル│ スから譲り受け、逃がす。
とした。 │ エポニーヌ(16)バリケードに入り銃撃で
1834(32)〈クロード・グー〉社会から見捨│ 死ぬ。
てられた惨めな男に対する愛情 │ 夕方の銃撃で、バリケードは壊滅。
1843(41)ロマン劇が飽きられ史劇〈城王〉│ 負傷したマリウスを背負って、ジャン・
が失敗。愛嬢レオポルディーヌの不慮│ バルジャンは下水道に入る。
の死と政治への関心から、40年代は作│ 下水道の出口で、テナルディエより鍵を
品を発表しない │ 開けてもらい、セーヌ川岸に出る。
アカデミーフランセーズの会員となる│ ジャベールに捕まるが、猶予を受けマリ
1845(43)〈レ・ミゼール〉執筆。女と子供│ ウスを家に届け、ロ・マルメ街に寄る。
の悲惨を描く。上院議員、子爵位。 │ セーヌ川、ノートルダム橋でジャベール
1848 二月革命 ルイ・フィリップが、 │ (52)自殺。
イギリスに亡命し共和派の政府成立 │1832.9月 回復したマリウスは、ジルノルマン
50年ぶりにフランス民主主義誕生 │ 氏に結婚を頼み了承を得る
(46)二月革命に共和派として参加。 │ 翌日、コゼット達が氏宅に呼ばれ婚約
第二共和制の国会議員となる │1833.2/16 結婚式 マリウス(23)コゼット(17)
1851〜1870 ルイ・ボナパルト(甥)が、│ 2/17 ジャン・バルジャン(64)は過去を
ナポレオン3世と称し共和制を覆す │ マリウスに告白。
第2帝政時代(パリの人口約105万人 │ ロ・マルメ街て゛一人で暮らす。
12月(49)ナポレオン3世のクーデター│ 夏〜 体の具合が悪くなる
に反対し、ジャージー島へ追放 │1834 マリウスは、テナルディエの訪問を受け
1859(57)イタリア統一戦争。ナポレオン3│ 真実を知る。
世が休戦を申込むが、拒否する │ テナルディエは2日後、アメリカに渡り
1860 オスマン男爵のパリ大改造。区画 │ 奴隷商人となる。
整理でパリの街の様子は激変する │ マリウス(24)とコゼット(18)はロ・マル
次女アデルの精神の失調 │ メ街へ行き、父(65)を許す。
4/26(58)亡命先ガーンジー島で、故郷│ ジャン・バルジャンの死
パリを偲びレ・ミゼールに加筆修正└─────────────────────
1861.6/30(59)〈レ・ミゼラブル〉完成
「午前8時30分、私はレ・ミゼラブルの原稿の最後の頁に《完》の文字を書いた…
これでもう死んでもいい」
1862パリ、ブリュッセルで出版。全10巻
トルストイ等ロシア作家に影響を与える
1865 文字の理解しにくい層の人々の為に、ギュスターヴ・ブリヨンの版画挿絵入りの、
〈レ・ミゼラブル〉出版。15万部売上。
1870.7〜1871.9月 独仏戦争
1871.1月末 パリ陥落。パリ=コンミューンで、ナポレオン3世捕えられる
9月 第3共和制
1871(69)共和制のパリへ戻り、共和党員として活躍しつつも、穏やかに暮らす
1875 仏第3共和国憲法(三権分立)
1879〜1882 多くの挿絵を入れたユーグ版を233冊に分けて、廉価で週刊したことで、
より有名な作品となる。
1885(83)ヴィクトル・ユーゴー亡くなる。国葬でパンテオンに葬られる