かなめ presents

アンジョメール

Copyright (C) 1998 kaname, Les Miserables Maniax
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皆様ご機嫌よう、かなめでございます。

ご要望頂きました「アンジョメール」ですが。
本当に「熱い」んです。火傷くらいじゃすみません。
いずれお目に触れるかもしれません、「レマニ」に投稿してある
「アンジョルラスについて勝手に語ろう」というのは、全くの序の口。
私のまるっきりの偏見、ですので予めご了承ください。
(マダムが掲載拒否したのではなくて、自主規制です・・・一応)


心構えが出来た場合に限り、下の段へ読み進んで下さい。
以下、取扱いには重々御注意下さい(笑)


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ミュージカルでは全体「格好良い」演出ですよね、アンジョルラスって。
「何でこんなに目立つの?」と不思議に思った。
「実際に目の前にいて格好良いと思える人」じゃないと思ったから。
ミュージカルというエンターテイメントとしてのそれについては、全く構わないんです
もっとやって!!って感じですね(おいおい)

ただ、やっぱり何度見てもあの死に方だけは、納得がいかない。
役者に文句言っても仕方がないけれど「全然分かってないわっっ!」と
舞台に向かって叫びたくなってしまう。
舞台としては、確かに目立つ。効果バッチリ。でも。
死体になってしまったアンジョルラスについては、幾らでも美化して下さい、と思う
真紅の旗敷いて逆さまになっていても、なんでも良い
(それに拍手はする気になれないけど)
でも、何で先頭きってバリケード駆け上って、死ぬのぉっ?!(悲痛なまでの叫び・・・笑)

撃たれたマリウスに駆け寄るその行動も、
駆け上ったバリケードの上で旗を振りつつ撃たれていく姿も。
あの一連のシーンが全然、全く(しつこいっ)理解出来ません、私。

某キャストに突撃で(うそ)聞いた人がいます。
「あの場面(アンジョルラスとして)どういう心境なんですか」と。
対する答えは「うーん、どんな心境なんだろう」でした。・・・溜め息

とにかくこのシーンについては、小説に絶大なる思い入れがあるのよ、と言う前置きです
そろそろ本題行きましょう。本当に、大丈夫ですか?
【 】内は小説を参照。基本的には岩波版を抜粋しますが、
多分大半偏見に満ちた私の勝手な要約になると思います。予め御了承下さい。

【 二十人ばかりの襲撃者は憤激し、狂猛となって、二階の広間に侵入した。
   そこに立っている者はただ一人に過ぎなかった。】
バリケードにいた烏合の衆でしかない人々。
彼らは唯一人、アンジョルラスその人に希望を託す。
彼を守る為に一人、また一人と傷つき倒れていく。
気付くとその場には、もう、彼しか残されていなかった。
この時間経過。徐々に徐々に、でも確実に近付く終末。
畳み掛けるような言葉の一片づつか胸に迫ってくるんですよね。
それなのに・・・勝手に一人で先走って死んで、どうするつもりなんだっっ(泣)

【ただ一人、1個所の傷も負わず、崇高な姿で、血に塗れ、麗しい頬をし、
  不死身なるかの様に平然としているこの青年は、
  その落ち着いた一瞥の威厳のみで既に、もの凄い一群の者らをして、
  彼を殺すにあたって尊敬の念を起こさしめるかと思われた。】 
私にはこのシーン、薔薇よりむしろ火の鳥=フェニックス(不死鳥?)が
バックに見えますわ。(私も相当どっか行っちゃってますね・・・笑)
頬を染めた血飛沫は、確かに薔薇の花弁に見えそうだわ(くすすっ)
このシーンは、アンジョルラス一人後光差してみえますよね、絶対。
(リクスの挿し絵の影響なのかもしれませんが)
それぞれの形さえ定かでない、暗闇の中に埋没している有象無象の兵士達。
対して一人決然と立つアンジョルラス。(ピン・スポット!)
こんなに明暗対比のはっきりしたシーン、絶対舞台効果あると思うんだけどなぁ。
羽根背負って出てきても良いですよね、アンジョルラス(やっぱり宝塚?)

「アポロンと呼ばるる一人の暴徒がいた」
「花を撃つような気がする」
この二つは是非とも、ミュージカルの中でも使って欲しかった形容です。
(それに役者さんが見合うかどうかは、二の次!・・・失礼)
ミュージカルではあっけなく死んでしまうアンジョルラスですが
小説では何度も、何度も銃口に狙われ、その都度、誰かが遮ったり、本人が躊躇したり。
そのやり取り一つ一つがとっても印象深い、と思う私です。

そして当然ながら。
この場面を語ろうとするときに、グランテールを忘れてはいけません。
【「一撃ちで我々2人を倒してみろ」とおもむろに銃口の前に身を晒すグランテール。
  そして、静かにアンジョルラスの方を向いて言う。「承知してくれるか」
  アンジョルラスはただ微笑しながら彼の手を握る。】
・・・滂沱。
このグランテールの同志愛、友情に、ホモセクシュアルな意味が含まれるか否か。
この辺拘る方多いようですが(ここ力説すると思いました?)、
私自身はどっちだって構わないと思っています。  
私は女で、日本の、現代に生きているから。その感情は到底理解出来ないんだもの。
革命、と言う極限状況に置かれたこともないし。
ただ、場面として。静謐のうちに全てが運ばれていくのが哀しくて。
未だに涙ぐんでしまいます。
・・・大いにそういう感情があったろう、と思いはしますが(結局、そうやんか・・・笑)

性格的には多分、一番グランテールに近いです、自分で見て。
懐疑屋だし、何と言っても意気地なしだから(威張るなっっ)
実際に明日命を落すかもしれないなんて言う革命に、自らの意志で身を投じるかどうか、
かなり怪しい。恐いし、恐ろしくて、自分じゃ絶対積極的には
参加しようなんて思わないけど。強烈な個性であるアンジョルラスのカリスマ性に
出会っておきながら、それを無視出来るほどの意志の強さも持ち合わせていない。
飲んだくれて恐怖心をアルコールで紛らわせてでもいなければいられないほど、怯えて。
でも。離れられない。
そう言う強力な磁力を持った存在がグランテールにとっての、そして多分、
その場に居合わせた場合の私にとっての、アンジョルラス。

そんな私が思いっきり感情移入してこのシーン読んだんですから。
そりゃもう、顔面洪水の渦で大変でしたわよ(爆笑)

「受容される」ということが何より、切なく、嬉しくて。
この、グランテールがアンジョルラスと共に死んでいくという場面は、
『「懐疑」もまた「理想」の中に溶け込んで「希望」として昇華されるのだということ』
を暗示しているんだと思うんです。
観念的な話で恐縮ですが。
ただ一人、マリウスが生き残ること。それこそが重大なわけで、彼ら2人含めた砦の人々
全ては死んでいかなければならなかったし、その死、そのものが
『「到達されなければならない改革」が「考え得る種々の事柄」をその内に包含していく
  それこそが「新たな光溢れる社会」の礎となるのだ』
と。ユーゴーがその(かなり楽観的な)思いを述べているように感じられるのです。

だから。(冒頭の話に戻ってしまいますが)
アンジョルラスは、狙撃兵に撃たれたマリウスに駆け寄ってはいけないと思うんですよ。
【一人戸外に残されたマリウスは、気が遠くなって倒れ掛かる自らを感じていた。
  一発の弾を鎖骨に受けたからである。完全に意識を手放す直前に頭に浮かんだ考え。
  「捕虜となった。銃殺されるのだ」。そしてそれは、マリウスの姿を見失った
  アンジョルラスが、彼の最期について考えたことと、同じだった。】
そこにいないのなら、死んだものと考える。
それが追いつめられた人々の心境なのではないでしょうか。
例え、その瞬間にはまだ息があったとしても。
生きていれば、いずれ捕虜として捕らわれよう。囚人達に待つのは銃殺の刑。
遠からず、死ぬのだ。誰も皆・・・同じなのだ。
この時の誰にも、自分の死を考える以外の余裕はなかったはず。
ましてやアンジョルラスだけは最後まで信じていなくちゃいけない。
「希望」は失われない。「自由」は「革命の血」をもってあがなえる物なのだと。
倒れ落ちたマリウスの姿に、絶望を感じてしまうなんてもっての外!
そこに「無情」を見、絶望を感じ、自暴自棄になってバリケードに駆け上がるのなら、
それはもう、アンジョルラスではない。

「あのシーンで(アンジョルラスが)抱いているのは絶望ですか」と
先述の某キャストに引き続き尋ねた人がいます。
「いや・・・、絶望、ではないと思う」と、彼は考え考え答えてくれました。
ちょっと、ホッとしたかもしれない。
「そうかもしれない」なんてシレっと答えられたら、
その場で即刻ファン止めてやろうと、マジで思った(いや、本当に)
殺気を感じたかな(爆笑)

文学的で、心に静けさを呼ぶ最期といえば、それはもう、段トツでジャベールです。
いや、勿論大前提はバルジャンですが(今更)
あの静けさというのは、深いですね。こう、ミーハーに騒げないくらい。

アンジョルラスの最期のシーンが、こんなにも私の単純な涙腺を(何度も!)
刺激するのは、きっと「分かりやすい、劇的な表現」をされているからなんだと思います
こういう言い方が合っているのかどうか分かりませんが、「華やか」ですよね。
アンジョルラスって、突き詰めたら「人間では有り得ない」訳だから。
演出過剰で構わないと思う。最期の場面も華々しくって当然。
それこそが、アンジョルラスというキャラクターの
「レ・ミゼラブル」と言う作品における位置、意義なんだから。
登場人物の誰よりも「夢」「理想」「憧れ」。
私も私で、そういうキャラクターにはめっきり弱いから。昔から。インプリンティングで
「清く正しく美しく」「少女達の永遠の夢」であり続ける宝塚と、こうして考えていると
かなりオーバーラップするのかもしれません。

さてさて。胸焼け起こしてませんか?大丈夫ですか?
頭痛、悪寒、嫌悪感(!)などについては、ケア出来ませんので悪しからず。

アンジョルラスの「死」の場面についてしつこく語ってますが。
逆に言うと、アンジョルラスの成長過程、或いは
アンジョルラスがどんな少年時代を送っていたのか、と言うのは
全く意味がないと思うから、なんですね。
(私自身興味がない、というわけではないけれど・・・笑)

彼は「理想」であり「思想の体現者」である訳ですから、
彼自身の「過去」や「歴史」がある訳がない。
それは、返せば「レ・ミゼラブル」の登場人物達全てに言えることでしょうが、
彼らはそれぞれの「象徴」でしかない。
事象の時間は流れても、人物達にはそこに描かれている「今」しかない。

だからこそ。
描かれている「死」というものを考えずにはいられないわけです。
「死」の対局には「生」があり、架け橋としての「愛」があるはずですから。
そしてそれが。何度も読み返さずにはいられない、
小説「レ・ミゼラブル」の魅力だと思うのです。

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長々お疲れ様でした。
今回は小説至上主義、として語ってきましたが、
逆に、ミュージカルとしてのアンジョルラスの素晴らしさ、というのもあるはずです。
改めて別項にて、そちらの点については「語り」たいと思います。
それぞれの役者さんの解釈する、そして表現しているアンジョルラス。
そこに見える、強いメッセージ。
それは私自身とそして、皆さんへの宿題、にしておきましょう。
また、次の機会までの。

それでは。
異論反論様々ありましょう。是非お聞かせ下さいね。
                                                                 かなめ拝

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